不意に訪れるもの
電車の隣に座っていた人は、降りる間際にかけられたたった一言を、まだ胸の奥で温め続けている。今日も一日がんばりましょうね、と見知らぬ誰かに言われただけなのに、その日はずっと何かが違っていた。同時に、自分は誰かにそんな一言を渡せているのだろうかと、受け取るばかりの手のひらを見つめる時間も生まれていた。
久しぶりに実家の部屋に足を踏み入れた人は、忘れていたはずの子どもの頃の絵が、日付と小さなメモとともに大切にしまわれているのを見つけた。何も言葉にならず、ただ黙ってそれを眺めていた。ちゃんと伝えたかった言葉は、結局その場では出てこないまま、帰りの電車の中でもまだ胸のどこかで揺れ続けていた。
対話に耳を傾けていた人は、以前ともに言葉を交わした相手から、あのとき整理できずにいた思いがようやく形になり、動き出せるようになったと聞かされた。誰かの中にあるものにそっと触れ、まだ気づかれていない何かを浮かび上がらせる。そのために鏡のような存在でありたいと願いながら重ねてきた時間が、思いがけない形で返ってきた瞬間だった。
感動は予定表に書き込めるものではなく、身構えていないところに不意に訪れる。渡すことと受け取ることのあいだで、それぞれの胸にまだ言葉にならない何かが残ったままになっている。
エピローグ
対話に耳を傾けていた人は、次に誰かと向き合う前に、少しだけ時間の使い方を変えてみようと思っている。すぐに本題に入るのではなく、まず場の空気がやわらぐような時間を挟むこと。相手が身構えずに言葉を置けるような、そんな最初の数分をどう作るか、まだ手探りのままだけれど、そこから始めてみようとしている。
実家の部屋に足を踏み入れた人は、あの日言えなかった言葉を、まだ胸のどこかに預けたままでいる。今度の休みには電話をしてみようと決めてはいるものの、受話器を取る自分をまだ想像しきれずにいる。絵のこと、メモのこと、ちゃんと伝えたいと思う気持ちだけが、行き場を探して静かに待っている。
電車の隣に座っていた人は、これからは自分の番だと思うようになった。大きなことでなくていい、一日のうちのどこかで、誰かにささやかな一言を差し出してみること。うまく言葉が出なくても構わないと、自分に言い聞かせながら。渡すことの難しさを知ったからこそ、その小さな一歩を試してみようとしている。
感動は予定表に書き込めるものではなく、身構えていないところに不意に訪れる。渡すことと受け取ることのあいだで、それぞれの胸にまだ言葉にならない何かが残ったままになっている。

