羊飼いと洗濯ばさみ
丘の上で羊を飼う人がいた。群れの中に、もうずいぶん歳を取った一頭がいる。目が白く濁っていて、名前を呼んでも、こちらを向くのが前より遅い。 「お前、わしのこと分かってるか」 羊は、ふう、と鼻を鳴らすだけだった。 今年もその羊の毛を刈った。もしかしたら、これが最後の毛刈りになるかもしれない。だから、いつもより丁寧に刈った。 刈った毛は洗って、大きな布にくるみ、干し場に広げる。風が出てきたので、飛ばされないように洗濯ばさみでしっかり留めた。布がぴんと張って、ばたばた暴れるのを、ぎゅっと挟んで抑え込む。 弟子の若者が通りかかって言った。 「そんなに強く挟んだら、風が通らないから乾きませんよ」 「風で飛ばされるよりマシだろう」 「でも明日の朝には、まだ湿ってるかもしれません」 羊飼いは布を見た。老いた羊を見た。間に合わせたいことが多すぎて、どれから手を離していいのか分からなくなる。 結局、洗濯ばさみを少しだけずらしてみた。布の端に、ほんの指一本分の隙間ができる。 風が隙間から通り抜けて、布がふわりと膨らんだ。 次の日の朝、布はすっかり乾いていた。 老いた羊は、相変わらずこちらを覚えていないような顔をしていたが、乾いた布の匂いには、ちゃんと鼻を近づけてきた。
物語からの問い
私は、強くつかむほど離れていくものがあるだろうか?
私は今、何かを強く握りすぎていないだろうか?
私は明日、何かの挟み方を少しゆるめてみるだろうか?
エピローグ
季節がひとつ変わった。丘の上の風は少し冷たくなり、羊の毛も厚みを増していた。
弟子はこのごろ、ときどき自分の子を連れて丘に来るようになった。前はいつも一人で来ていたのに。 「今日は親に預けず、連れてきたのか」 「親にも、もっと会わせようと思って。預けっぱなしにしてたら、そのうち会えなくなる気がして」 弟子はそう言って、子どもを干し場のそばに座らせた。子どもは洗濯ばさみを指でつまんで、ぱちん、ぱちんと鳴らして遊んでいる。 「頼りすぎるなよ」 「頼りすぎない程度に頼ります」 弟子は笑って、布の端を直した。前よりほんの少し、隙間の幅が上手くなっている。
一方で、通りすがりに布を眺めていくだけの人もいた。老いた羊に目を留め、何か言いたそうにして、結局何も言わずに丘を下りていく。急いた用があるわけでもないのに、足はいつも先を急いでいた。羊飼いはそれを咎めなかった。踏み出せない日があることも、よく知っていたから。
老いた羊は、今日も干し場のそばに立っていた。風が布を揺らすたび、わずかに耳を動かす。
老いた羊は、相変わらずこちらを覚えていないような顔をしていたが、乾いた布の匂いには、ちゃんと鼻を近づけてきた。

